9.全てを捨てて
4月、ユキは、海野コーチの母校でもある大学に合格した。そこには、コーチが在籍したフィギュアスケートのクラブがあり、ユキは先輩に誘わるがまま入部した。しばらく、スケートから遠ざかっていたユキにとっては、大学の部活は精神的にも身体的にも現役に復帰するいい機会となった。何より、大学に入ってから本格的にフィギュアを始めてから貪欲に取り組んでいる先輩達や大学に入ってから始めたばかりの同級生がいて時間を共有することが楽しかった。 うまく滑れないけどフィギュアの魅力にとりつかれて一生懸命取り組む姿やフィギュア談義で深夜まで語り合ったりすることが、ユキには新鮮だった。 ユキは、大学に入って1ヶ月、2ヶ月と、勉強と部活で、それなりに充実した日々を送っていた。 そんなある日、クラブのコンパの2次会で、先輩が話しかけてきた。 「ユキ、あなた今のままで、本当にいいの」 「先輩、何を言ってるんですか」 「アンタの実力ならインカレとかで、それなりに活躍できるやろうけど、それで満足なの」 「私は、元々この大学に入って、いろいろ勉強して、やりたい仕事もあったし」 「ホントにそうなの。そりゃあ、人それぞれ生き方があるし、高校時代にスポーツで活躍しても、高校卒業して普通の大学生になる人もたくさんいるわね」 「はい。そうですよね」 「アホ。アンタの実力、いや何よりもアンタの現役復帰をどれだけの人が待ってると思ってんのや」 「いや、私の足ではもうダメなんです。もう、まともにジャンプでは勝負できへんのです」 「それも、知ってるわ。大きなお世話かもしれへんけど、私はアンタのケガについても調べてみたんや。アンタの思ってる通り、そのケガは絶対治らへん。せやけどな、おんなじケガしてても、頑張ってるスポーツ選手もぎょうさんおるわ。意外と足を一番酷使する、Jリーグの選手にも多いんや。アンタも、やってみいへんか」 「いや、私はできるだけ養生しながら、やってきたんやけど、もうムリやてわかってしもたんや」 「そや、スポーツの一流選手が一流の世界で個人でケガと戦っていくんは、ムリや。そやけどな、そういうスポーツ選手のケガを専門にケアしてくれる専門のドクターもおるんや。それも、トレーニングもコミでみてくれるんや」 「いや、それもあたってみたけど、ええドクターがおらんかったんです」 「そやな、確かに日本にはおらんわ。特にフィギュアスケートはな。あんな、アメリカのコロラドスプリングスって知ってるやろ。あっこやったら、アンタみたいなスケーターなんかを良うみてくれるみたいやで。数少ないけど、あっこで復活したスケーターもまあまあおるみたいやで」 「そうですね。あそこやったらと考えたこともあったけど、親にぎょうさん迷惑かけてきたし、それで復活できるかどうかもわからんし、私ごときにあそこでリハビリさせてもらえるだけの価値はないし」 「そんなこと心配必要あらへんで。私らがカンパとか募金とかしたるし、アンタのお母さんにも私らが一緒にお願いしたるし。それにアンタのフィギュアスケーターとしての価値をお母さんが一番よう知ってはるで」 「そうなんですか。みんなそんな風に思ってくれはるんですか」 「そやろ。なあみんな」と先輩が、声をはりあげた。 「そや、そや」という声があちこちで聞こえてきた。 「みんな、ありがとう。なんや、すごい自信なくしてたんやけど、ごっつい勇気がわいてきたわ」 「よし、みんなで、ユキをコロラドスプリングスへ行かしたろ。どや」と、また先輩が声をはりあげると、拍手と声援があちこちで聞こえてきた。 「がんばれよ」 「はよ、足首なおしや」 「楽しみにしてるし」
「お母さん、私ね、やっぱりスケート辞められへんねん。アメリカでリハビリやって、復活したいねん。大学のみんなも、行ってこい言うて、応援してくれてんねん」 「あんた、そんなこと言うて、大学はどうすんの」 「大学の先生とも、話し合ってみたんやけど休学して行ってきたらって、言うてくれはるねん。私自身もようわからへんかったんやけど、なんや私のことめっちゃ応援してくれる人が仰山おるねん」 「そうやな。あんた、結構人気もんやさかいな」 「プレッシャーもあるけど、このまま辞めてしもたら、私、私、・・・一生後悔すると思うねん。もう一度だけ、もう一度だけ、私の我侭聞いてえや」 「しゃあないな。あんたがスケートを始めた時もそうやったし、言い出したら聞かへんもんな」 「ごめんなさい。ごめんなさい。大学も、ちゃんと卒業するし」 「しゃあないな。お父さんには、私からもいっしょに頼んだるわ」 ユキの目から、一筋の涙が流れ落ちた。
「みんな、見送りありがとう。こんなにたくさん来てくれて」
「ユキちゃん、がんばれよ」 「復活信じて、待ってるし」
「みんな、みんな、ありがとう。私、もう一度やり直すから。あっち行って、前みた いにやれるかどうかわからへんけど、必ず、必ず、もう一度リンクで踊れるようになっ て帰ってくるし。ほな行ってくるわ」 また、搭乗ゲートに向かうユキの目から、一筋の涙が流れ落ちた。
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