11.再びの挑戦
ユキは、帰ってきた。再び日本のリンクに立つために。あれから、すでに1年の月日が流れていた。ユキがアメリへ行っている間に、新井は競技を引退したが新たな強敵がたくさん出現していた。また、ユキが子供の頃から、海野コーチからフィギュアを学び続けた京都のスケート場が閉鎖されてしまっていた。海野コーチもあちこちのスケート場を梯子しながら、子供たちにスケートを教えている状況であった。 「ユキ、せっかく帰って来てくれたんだけど、今の私にはというより関西では、とてもじゃないけどまともにスケートの練習ができるところがなくなってしまったの」 「えっ。そうなんですか。噂では聞いてはいましたが、・・・」 「でも、大丈夫よ。あなたさえよければ、東京でスケートを教えてくれるコーチに相談して、そのへんは了解をいただいているの。大学も、編入した上で、また戻ってこれるようにネゴはとってあるわ」 「コーチ、そこまで私のことを、・・・」 「わかりました。私、東京へ行きます。そして、コーチの期待に応えてみせます」 「よかったわ。あなたが、前向きにとらえてくれて。あなたのいない京都は、また寂しくなるけど」 「私もそうですが、私は日本でもアメリカでもたくさんの人から支援と応援していただいてくれた人たちがいて、その人たちのためにもやります。どこまで、やれるかはわかりませんが」
春になり、ユキは再び京都を離れ東京での生活が始まった。 「ユキくん、キミがアメリカへ行く前からだが、フィギュアの採点基準は大きく変わってしまった。私もキミの演技を愛する一人ではあるが、競技は別物だ。わかっているとは思うが」 「はい、竹鼻コーチ。そのあたりは、ビシバシご指導お願いします」 多くの指導生を持つ竹鼻コーチではあるが、アメリカ帰りのユキにかなりの時間を割いて、指導にあたった。 根が優しすぎる竹鼻ではあるが、それがゆえの指導の厳しさがあった。 「ダメだ。ダメだ。何度言ったらわかるんだ。そのポジションは3秒間やらなきゃ、何の意味もないんだぞ」 「はい、コーチ」 美しさを追求してきたユキには、なかなかその癖をなくすことができなかった。 しかし、ユキは必死で、練習を重ねた。ここ一番では勝負できるように、トリプルルッツやトリプルフリップも足首に負担が掛からないように工夫しながら練習を繰り返した。 1ヶ月がすぎ、東京での生活に慣れてきたころ、カムバックを待ちに待ったたくさんのユキファンの声に押されて、とある大阪で開催されたアイスショーに出演することになった。 スワンレイクのメロディーが流れると、ユキは一羽の白鳥に変身していた。 会場からは、子供たちの「ユキちゃーん」という大声援。 静かに、滑走が始まり、流れるようにジャンプ、スパイラル、スピン、レイバックイナバウア、そしてストレートラインステップから、レイバックスピンへと移り、氷上に前後開脚しながら、上半身も氷上に倒れ付し、翼の折れた白鳥が動かなくなった。 ユキは数秒間、氷上に倒れ付している間、会場は静まり返った。 ユキが動き出した瞬間、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。 着替え終わって、会場を出てきたユキを海野コーチと竹鼻コーチが待っていた。 「ユキ、あなたの演技はホント最高ね。でも、これからだね」 「はい。まだまだの出来でしたが。今年は予選からですが、必ず決勝まで勝ち上がってみせます」 「足首の調子はどうなの」 「はい。痛む時もありますが、それと付き合っていくことを覚悟で復帰の道を選んだのですから」 「竹鼻コーチ、ご苦労をおかけしますがユキのことをよろしくお願いします」 「いや、私の方こそユキクンを預からせてもらったことに感謝しています」
それから、ユキは年末の全日本選手権に出場するために、東京での練習を重ねた。さすがに、たくさんの指導生をかかえる竹鼻は何ヶ月もユキにつきっきりというわけにはいかなかった。 ジャンプが思うようにいかないユキは、焦っていた。10月の近畿ブロックは、多少うまくいかなくても、年末の全日本に照準を絞ればと考えていた。
10月、地区予選大会が始まった。ユキは近畿ブロックにエントリーした。結果は、惨憺たるものだった。かつて、シニアの四大陸選手権で優勝したことのあるユキにとっては、唇を噛むしかなかった。 「こんなに、レベルが上がっているとは、・・・」 「考えが甘かった。とにかく11月、目の前にある西日本ブロックで成績を残さなければ後がない」 ユキ自身も、足首の関節の弱さを補うためにその周りの筋肉を強化し、演技全体のレベルアップはしていたのだが、予想以上に日本全体のスケートレベルは向上していた。 ユキは、しばらく足首を回復させるため、スケーティング練習は封印せざるを得なかった。
11月、西日本選手権、足首は復調してきたが、練習不足もあり、なんとか3位にはいることができて、12月の全日本選手権に出場権を得ることができた。
12月、いよいよ決戦の時がやってきた。 西日本選手権や東日本選手権ですら、半分以上の選手が当たり前のように3回転のコンビネーションを跳んでくる。ましてや、シード選手ともなるとトリプルアクセルや4回転を跳ぶだけの力を持っている。 採点基準を考えると、ユキもトリプルルッツやフリップあるいは3回転コンビネーションを跳ばざるを得なかった。この全日本に全てをかけて調整できるのであれば、足首の調子を整えることができたかもしれない。そんなことをいくら考えても仕方ないこととはわかってはいるのだが。
ショートプログラム、いよいよユキの順番がきた。 トリプルルッツとトリプルフリップを封印し、それ以外の部分でほぼベストを尽くすことができた。ショートプログラムで6位以内に入りフリープログラムで上位を狙いたかったが、順位は7位だった。 「表彰台に登るためには、もうルッツとフリップをやるしかない」
ユキのフリープログラムの順番がやってきた。 ユキは、リンク中央でこれまでのスケート人生を抱きかかえるようにポーズを決めて静止した。 全てをかけた全日本。 昔のような、派手なジャンプはない。 しかし、誰にも負けない世界一のスピン、世界一のフィギュアをひっさげて。 一度は、完全に諦めてしまった夢を叶えようとして、氷上に立っていた。 もう、過去の栄光など何もない。 プライドをかなぐり捨てて、予選からはい上がった足首は限界に超えていた。 彼女のスケート人生をかけた覚悟を知らずに、これからが楽しみなどという無神経なゲスト解説者。 彼女は、リンクの真ん中に立ち、サラ・ブライトマンのメロディを待っていた。
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